賃金は、法令によって定められるもの(所得税・社会保険料など)、労働協約によって定められるもの、事業場労働者過半数代表者との間の書面によって定められるものを控除する場合を除き、その全額を支払わなければならない(労基法24条1項)。

使用者が労働者に対して何らかの債権を有しているからといって、一方的に、労働者に支払うべき賃金との清算をすることは原則として認められない。

「問題は、使用者が労働者に対して有する債権を賃金債権と相殺することが許されるか否かである。まず、使用者が労働者に対して有する債権(貸付金債権、労働者の債務不履行・不法行為を理由とする損害賠償債権)を自働債権とし、賃金債権を受働債権として相殺を行う場合(一方的相殺。民505条)については、判例は、労基法24条の「控除」禁止が「相殺」を含むものと解し、一方的相殺を全額払原則違反としている。すなわち判例は、使用者が労働者の債務不履行(職務懈怠)に基づく損害賠償請求権を自働債権として主張した事案と、労働者の不法行為(背任)に基づく損害賠償請求権を自働債権として主張した事案の双方について、全額払原則の前記趣旨を援用して相殺禁止を判示し、通説もこれを支持している。」(土田道夫『労働契約法』232-233頁〔有斐閣,2008年〕)

「労働基準法24条1項は、賃金は原則としてその全額を支払わなければならない旨を規定し、これによれば、賃金債権に対しては損害賠償債権をもって相殺をすることも許されないと解するのが相当である」(関西精機事件-最2小判 昭31・11・2)

「労働者の賃金は、労働者の生活を支える重要な財源で、日常必要とするものであるから、これを労働者に確実に受領させ、その生活に不安のないようにすることは、労働政策の上から極めて必要なことであり、労働基準法24条1項が、賃金は同項但書の場合を除きその全額を直接労働者に支払わねばならない旨を規定しているのも、右にのべた趣旨を、その法意とするものというべきである。しからば同条項は、労働者の賃金債権に対しては、使用者は、使用者が労働者に対して有する債権をもって相殺することを許されないとの趣旨を包含するものと解するのが相当である。このことは、その債権が不法行為を原因としたものであっても変りはない」(日本勧業経済会事件-最大判 昭36・5・31)

「労働基準法24条1項本文の定めるいわゆる賃金全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図ろうとするものというべきであるから、使用者が労働者に対して有する債権をもって労働者の賃金債権と相殺することを禁止する趣旨をも包含するものである」(日新製鋼事件-最2小判 平2・11・2)

労働者が自由な意思に基づいて賃金の相殺・放棄に同意したものと認められる場合は、全額払原則に反するとはされないが、労働者の同意は厳格に判断されるべきものであると解されている。

「使用者が労働者との合意によって賃金債権を相殺することについては、全額払の原則の趣旨は労働者の経済生活の保護にあり、労働者が自由意思によって相殺に同意した場合にまで相殺を禁止する趣旨ではないとして適法と解されている。ただし、労働者の自由意思の有無は厳格に判定され、同意の任意性及び労働者にとっての利益性に即して、自由意思に基づく同意であることが客観的に認められることを要する。」(土田233頁)

「全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活をおびやかすことのないようにしてその保護をはかろうとするものというべきであるから、・・・、労働者たる上告人が退職に際しみずから賃金に該当する本件退職金債権を放棄する旨の意思表示をした場合に、右全額払の原則が右意思表示の効力を否定する趣旨のものであるとまで解することはできない。もっとも、右全額払の原則の趣旨とするところなどに鑑みれば、右意思表示の効力を肯定するには、それが上告人の自由な意思に基づくものであることが明確でなければならないものと解すべきである」(シンガー・ソーイング・メシーン事件-最2小判 昭48・1・19)

「労働者がその自由な意思に基づき右相殺に同意した場合においては、右同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、右同意を得てした相殺は右規定に違反するものとはいえないものと解するのが相当である(最高裁昭和44年(オ)第1073号同48年1月19日第2小法廷判決・民集27巻1号27頁参照)。もっとも、右全額払の原則の趣旨にかんがみると、右同意が労働者の自由な意思に基づくものであるとの認定判断は、厳格かつ慎重に行われなければならないことはいうまでもないところである」(日新製鋼事件-最2小判 平2・11・2)