権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならず(民法1条2項)、契約の締結においても変わりはない。

契約締結に向けて具体的に話が進んでいたにも拘わらず、契約の締結に至らなかった場合、契約締結不能とした側は契約の相手方に対して信義に従い誠実に対応することが求められる。

「当事者間において契約締結の準備が進捗し、相手方において契約の成立が確実なものと期待するに至った場合には、その一方の当事者としては相手方の右期待を侵害しないように誠実に契約の成立に努めるべき信義則上の義務があるものというべきであって、一方の当事者が右義務に違反して相手方との契約の締結を不可能ならしめた場合には、特段の事情がない限り、相手方に対する違法行為として相手方の被った損害につきその賠償の責を負うべきものと解するのが相当である。」(最高裁 S58.4.19判決)

契約過程における信義則については労働契約についても変わりない。

「近時、雇用流動化の進展に伴って、転職に関連した紛争、例えば、転職の勧誘を受けて現在雇用されている企業を退職したところ、求人企業が提示していた労働条件を変更したり、求人企業の方針変更で契約締結に至らないといった紛争が増えてきている。このような事案では、労働契約が成立に至らない場合であっても、契約締結過程における求人企業の行為が信義則に反すると評価された場合は、損害賠償責任が認められ得る。」(荒木尚志『労働法』282頁,有斐閣,2009年)

「契約締結上の過失の一環として位置づけられる法理であり、労働契約の適正な運営を促進する規制という労働契約法の観点からも支持できる構成である。」(土田道夫『労働契約法』193頁,有斐閣,2008年)

「契約締結の準備段階であっても、その当事者は、信義則上互いに相手方と誠実に交渉しなければならず、相手方の財産上の利益や人格を毀損するようなことはできる限り避けるべきである。…右準備段階での一方の当事者の言動を相手方が誤解し、契約が成立し、もしくは確実に成立するとの誤った認識のもとに行動しようとし、その結果として過大な損害を負担する結果を招く可能性があるような場合には、その一方の当事者としても相手方の誤解を是正し、損害の発生を防止することに協力すべき信義則上の義務があり、同義務に違背したときはこれによって相手方に加えた損害を賠償すべき責任があると解するのが相当である。」(「かなざわ総本舗事件」S61・10・14 東京高裁 「金融商事判例」767号21頁)

「原告が被告に入社するためには、就職先を退職する必要があり、仮に、原告が就職先を退職した後に、原告と被告との間の雇用契約が締結できなくなった場合は、原告は職を失うことになるのであるから、このような事情を認識できた被告としては、相手方である原告において、勤務先を退職してまで、被告との雇用契約を締結するべきかどうかを考慮する機会を与え、また、仮にそのような状況に至った後の場合であっても、できるだけ損害が少なくなるように、早期に、その後の対処方法を考慮する機会を与えるべきである。」(「ユタカ精工事件」H17.9.9 大阪地裁 「労働判例」906号60頁)

「原告が、被告から採用内定を得られること、ひいては被告に就労できることについて、強い期待を抱いていたことはむしろ当然のことであり、…被告と原告との間で労働契約が確実に締結されるであろうとの原告の期待は、法的保護に十分に値する程度に高まっていたというべきである。…被告の本件内々定取消しは、労働契約締結過程における信義則に反し、原告の上記期待利益を侵害するものとして不法行為を構成するから、被告は、原告が被告への採用を信頼したために被った損害について、これを賠償すべき責任を負うというべきである。」(「コーセーアールイー(第2)事件」H22・6・2 福岡地裁 「労働判例」1008号5頁)